2012年6月24日日曜日
スティーリー・ダン / キャント・バイ・ア・スリル
Steely Dan / Can't Buy a Thrill(1972年リリース)
①Do It Again ②Dirty Work ③Kings ④Midnight Cruiser ⑤Only a Fool Would Say That ⑥Reelin' In The Years ⑦Fire In The Hole ⑧Brooklyn (Owes The Charmer Under Me) ⑨Change Of The Gurad ⑩Turn That Heartbeat Over Again
スティーリー・ダンについて語られることの多くは70年代後半の『彩(エイジャ)』や『ガウチョ』、そしてドナルド・フェイゲンの『ザ・ナイトフライ』などのアルバムのことで、フェイゲンとウォルター・ベッカーの2人が当時の一流スタジオミュージシャンを駆使して作り上げた音やその素晴らしさ、そしてAORの名盤としての視点からがほとんどだが、彼らがロック・バンドとしてデビューしてきたことというのは割りと軽視されている気がする。そんな自分も『ガウチョ』を無人島レコードとして挙げているし、彼らに駄作はないけれどそれでも先に挙げたアルバムを聴くことのほうが圧倒的に多い。しかしそれらの傑作もこの1stアルバムが無かったら生まれなかったわけであって、とりわけ2人がデビューした経緯を知れば知るほどそう思う。
大学時代に出会ったドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーはお互いの音楽センスに惹かれて意気投合して一緒に曲を作り始めた。そしてニューヨークの音楽出版社へ売り込みに行くものの相手にしてもらえず、他のバンドに参加しながらもその下地を徐々に作り上げていった。その時期に出会った一人が後の彼らのアルバムのプロデュースを担当するようになったゲイリー・カッツで、彼がロサンゼルスのABCレコードの専属プロデューサーとなった時に2人をソングライターとして推薦した。ソングライター契約はすぐに無くなってしまうものの、レコーディング・アーチストとして契約できたことでチャンスが巡ってくる。誰も曲を取り上げてくれないなら自分たちでバンドを作って発表しようということになり、下積み時代に知り合ったミュージシャンを集めてスティーリー・ダンを結成したのが1972年のことだ。そのときのメンバーはフェイゲン(vo, kbd)、ベッカー(b)、デニー・ダイアス(g)、ジェフ・スカンク・バクスター(g)、ジム・ホッダー(ds)、そしてデヴィッド・パーマー(vo)の6人だった。
最初のセッションで録音したという「ダラス」(B面は「セイル・ザ・ウォーターウェイ」)をデビュー・シングルとしてリリースするがグループのイメージと違うというレコード会社の判断ですぐに回収された。その後、ゲイリー・カッツをプロデューサーに、ロジャー・ニコルスをエンジニアとして迎えて製作されたのがこの『キャント・バイ・ア・スリル』で、①が全米6位のヒットとなった。後の密室的な音作りとは違って、このアルバムはラテン調やジャズのエッセンスなどを盛り込んだアメリカン・ロックという感じが実によく表れている。①がヒットしたことにより期待のロック・グループとして脚光を浴びることとなった。
しかしフェイゲンとベッカーの2人にとっては自分たちが作った曲が発表できれば良いだけで、アルバム発表に伴うツアーやロック・バンドとして期待されることなんてものは望んでいなかった。2人はひたすら曲を高めていくことにしか興味がなかったようで、このアルバムについても6人編成であるにも関わらず⑥のギターソロでエリオット・ランドールを起用したり、ヴィクター・フェルドマンがパーカッションで参加など、数人のゲスト・ミュージシャンを招いているところなんかは2人の正直な気持ちが垣間見えて面白い。なお、デヴィッド・パーマーはヴォーカリストとして加入していたが、彼がヴォーカルを担当しているのは②と⑧のみで、④がジム・ホッダーがヴォーカル、残りはフェイゲンが歌っている。フェイゲンはヴォーカルをするのが嫌で、良いヴォーカリストがいればすぐにでも加入させたいと言っていたという。
『キャント・バイ・ア・スリル』は大人の事情的な感じで作られた感もあるが、だからといってクオリティが低いわけでもなく、すでにフェイゲンとベッカーのソングライティングが一級品であることを示している。しかしバンドとしてのスティーリー・ダンは長続きせず、次作の前にパーマーが抜け、その後もツアーをしたがらないフェイゲンとベッカーと、ツアーに出たい他のメンバーが対立することになり、グループは徐々に2人のユニットと化していく。そして4作目の『うそつきケティ』からはスタジオ・ミュージシャンの起用が多くなることで以降はそのスタイルを発展させていき、他のバンドがあくまでもバンドにこだわってメンバーチェンジを繰り返しながら存続していく中、彼らはそのバンド幻想を打ち壊していくかのように孤高の存在へと向かうのであった。(h)
【イチオシの曲】Brooklyn (Owes The Charmer Under Me)
デヴィッド・パーマーがヴォーカルを取るカントリー調の曲。歌詞の対訳を見ると何を言っているのかよくわからないけど、ニューヨーク、ブルックリンのショウビズ界の陰の部分を歌っているかのような印象を受ける。ニューヨークで音楽出版社に売り込みに行った際の嫌な思い出なのだろうか?だからフェイゲンは自分で歌わずにパーマーに歌わせたのだろうか?いろいろ勘ぐりたくなる。
2012年6月17日日曜日
キャット・パワー / ディア・サー
Cat Power / Dear Sir (1995年リリース)
①3 Times ②Rockets ③Itchyhead ④Yesterday Is Here ⑤The Sleepwalker ⑥Mr. Gallo ⑦[Untitled] ⑧No Matter ⑨Headlights
アメリカ人女性ショーン・マーシャルが持つもう一つの名前、キャット・パワー。彼女は音楽を創り、演奏し、歌うだけでなく、モデルや女優という肩書きをも併せ持つ。純粋にその音楽に惚れ込んでしまった俺は、彼女の存在感そのものに魅了され続けている。リズ・フェアのオープニングアクトを勤めたという彼女の音楽キャリアの黎明期にまつわるエピソードだけでなく、ソニック・ユースのスティーヴ・シェリー、ダーティ・スリー、エディ・ヴェダー、デイヴ・グロール、ジュダ・バウアー、ベック等々枚挙に暇がないほど数多くのアーティストたちと共演してきた彼女。俺が敬愛して止まないこれらのアーティストからも支持されているという事実も、彼女への興味を増長させる。
そのキャット・パワーの1stアルバム『ディア・サー』は、ティム・フォルヤンとスティーヴ・シェリーをバックに1994年12月、ニューヨークでレコーディングされた。1996年にリリースされた2ndアルバム『マイラ・リー』に収録されている曲も実はこの時にレコーディングされたものであり、この時に生まれた曲たちを振り分け2枚のアルバムが形作られた。2004年に彼女の過去の作品が日本盤でリリースされた際にまとめて入手したという個人的な経緯もあり、俺の頭の中ではこの2枚のアルバムが混ざってしまっている。リリースに時間的な隔たりはあっても、同じサウンドと空気を持っている作品ということなのだろう。②は何故か両方のアルバムに収録されているし。
俺が初めてキャット・パワーの存在を認知したのはアメリカの有力なインディレーベルであるマタドールの2枚組サンプラー『ワッツ・アップ・マタドール?』収録の「ヌード・アズ・ザ・ニュース」を聴いて。ヤられた。んで、後に知ったそのキュートなルックス。2度ヤられた。それから、2003年の初来日公演。3度ヤられた。そしてその公演で知ったのが彼女の表現力の豊かさ。
その時、彼女はザ・ローリング・ストーンズの「サティスファクション」を演奏したのだが、その旋律は全く彼女のオリジナルとなっていた。'I Can't Get No Satisfaction'と歌っているのがわかったにも関わらず、彼女の曲かと思ってしまった。この「サティスファクション」を含む5作目『ザ・カバー・レコード』はそのタイトルが示すとおり中身はカバー曲で構成されているものの、歌詞以外の原型はほとんど留めておらず、オリジナルアルバムと言っても遜色ない大変素晴らしい作品となっている。この『ディア・サー』に収録されているトム・ウェイツのカバーである④も同様で、彼女はそのタイトルである'Yesterday Is Here'というフレーズを口遊むことなく曲は終わってしまう。どこまでも自由な彼女の表現力に平伏せざるを得ない。
この彼女の表現力が発揮されるのは実はカバー曲だけに限らない。2010年の来日公演を見に行った後、ネットで流れてきたその日のセットリストを見て初めて「アイ・ドント・ブレイム・ユー」を演奏していたことを知った俺。俺の大好きな曲なのに演奏されていたことに全く気づかないとは…(涙目)。他人の曲だけでなく、過去の自分の曲ですら今現在の自分のものにしてしまうこのセンス。毎晩同じ曲を演奏しても、過去に縛られることなく音楽を続けていくための彼女の処世術と言い換えることもできるのではないか。
さて最後に、正直に告白するとこの『ディア・サー』よりもセカンドアルバム『マイラ・リー』の方が好きだ。なぜなら『マイラ・リー』には、俺の大好きな曲「アイス・ウォーター」が収録されているから。さらにもうひと言。ウィキペディアによると、彼女は当時のインタビューで『ディア・サー』を1stアルバムではなく、E.P.と位置づけているという発言があったらしい。だとするとこの駄文、本ブログ「1AB」の趣旨から外れちゃうよ…。おしまい。(k)
2012年6月10日日曜日
テレヴィジョン / マーキー・ムーン
Television / Marquee Moon(1977年リリース)
①See No Evil ②Venus ③Friction ④Marquee Moon ⑤Elevation ⑥Guiding Light ⑦Prove It ⑧Torn Curtain
学生の頃、セックス・ピストルズなどのロンドン・パンクが好きだった奴に「これがニューヨーク・パンクだ」と言ってテレヴィジョンの『マーキー・ムーン』を聴かせた。彼は1曲目を途中まで聴いて「全然パンクじゃないよ」と言って聴くのを止めた。
ニューヨーク・パンクをロンドンのそれと同じものとして聴くと音楽的な違いに驚くし、場合によっては上の例のようにパンクじゃないと思うことだろう。リチャード・ヘル&ヴォイドイズやラモーンズのようなロンドン・パンクのお手本になったバンドもいたが、俺にとってニューヨーク・パンクとはパティ・スミスと、このテレヴィジョンに他ならない。ロンドン・パンクが体制への反抗が原動力だったのに対して、ニューヨーク・パンクはショウビジネスにどっぷり浸かったポピュラー・ミュージックに対するアート側からの反抗といった印象を受ける。
テレヴィジョンは1973年に結成され、ニューヨークのCBGBというライヴハウスを拠点として活動を始めた。1975年にはブライアン・イーノのもとでデモ・テープを作成するが、これはメンバーが気に入らずにオクラ入り。再度レコーディングをしなおして1977年に発表されたのがこの『マーキー・ムーン』だ。冷たく、かつ痙攣気味な音色の2本のギターと、トム・ヴァーレインの甲高いヴォーカルはとにかく印象に残ること間違いない。ポップな曲もあるが決してメインストリームに出ることのない、内なるエネルギーを秘めた佇まいが全体を覆っている。パンクというよりは後のニュー・ウェイヴやポスト・パンクのような音でイギリスでは好評だったが、ディスコが主流だった本国アメリカではさっぱりだったようだ。
俺が思うこのアルバムの魅力は、どんなにギターが絡み合って唸ろうが、トム・ヴァーレインがどれだけ声を張り上げようが、感情というものが伝わってこないことだ。良く言えばクールだし、悪く言えばすかしているということになるのだけど、それがそのままニューヨーク・パンクというカテゴリを象徴しているかのようだ。大御所であるイーノのプロデュースを蹴ったり、「ドアーズのいたエレクトラと契約したい」と言ってみたり、挙句の果てにはアルバム2枚であっさり解散しちゃうところなど、どこを取ってもすかしてるんだよ!といつも思ってしまう。でもそれがたまらなく魅力的なのだ。60年代のヴェルヴェット・アンダーグラウンドと同じ系列に並べて語れる唯一のバンドかもしれないし、その孤高ぶりはやはり彼らの後継がソニック・ユースぐらいしかいないと思えるぐらいのオリジナリティを持ったバンド、それがテレヴィジョンであり、彼らを生んだニューヨーク・パンクだということだ。
ちなみに冒頭で「パンクじゃない」と言った彼はその数ヵ月後に『マーキー・ムーン』のCDを買い、俺に「いいね、ニューヨーク・パンクは」と言った。遅かれ早かれ、彼はそう言うだろうなと当時の俺は思っていた。(h)
【イチオシの曲】Marquee Moon
やはりここはアルバム・タイトル曲を推しておく。10分もある長尺ナンバーだが、一度聴いたら忘れることができないギターリフはもう永遠に語り継がれることだろう。ヴァーレインとリチャード・ロイドの2人のギター・ソロも聴きどころ。かつてパティ・スミスはトム・ヴァーレインを「鶴のように美しい首を持った人」と評したそうだけど、それを某ロッキング・オン誌で「鶴をしめたような声」と言っていて、この曲のヴァーレインのヴォーカルを聴くとついその雑誌のことを思い出してしまう。
2012年6月3日日曜日
ビースティ・ボーイズ / ライセンスト・トゥ・イル
Beastie Boys / Lisenced To Ill(1986年リリース)
①Rhymin & Stealin ②The New Style ③She's Crafty ④Posse In Effect ⑤Slow Ride ⑥Girls ⑦Fight For Your Right ⑧No Sleep Till Brooklyn ⑨Paul Revere ⑩Hold It Now, Hit It ⑪Brass Monkey ⑫Slow And Low ⑬Time To Get Ill
1986年にRUN-D.M.C.が「ウォーク・ディス・ウェイ」をヒットさせたことでヒップ・ホップ/ラップの知名度を一気にメインストリームに持ってきた。俺もこの曲に衝撃を受けて彼らのアルバム『レイジング・ヘル』を聴いたのだけど、若干18歳の白人ロックばかりを聴くようになっていたガキにはまだ難しかったようだ。「ウォーク・・・」はエアロスミスの曲のカバーで、実際にジョー・ペリーがギターを弾いていたこともあってまるでロックそのものだったのだが、アルバムの他の曲はリズム主体で当時の俺にはまだ十分理解できなかった。
その数ヵ月後、今度は白人3人によるヒップ・ホップグループが話題となった。白人がラップということが当時は珍しかったし、まるで悪ガキがふざけているかのような⑦のPVのせいもあって、少なくとも国内では彼らをイロモノ的に扱ったメディアやリスナーの方が多かった記憶がある。もちろん俺もそうだったし、それこそ一発屋で終わるだろうなんて思っていた。だけどデビュー・アルバム『ライセンスト・トゥ・イル』はロックばかりを聴いていた俺をたちまち虜にしてしまった。
何せレコードに針を落とした1曲目のイントロがいきなりレッド・ツェッペリンの「レヴィー・ブレイクス」のドラムである。他にもザ・クラッシュやブラック・サバス、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルといった70年代ロックからのサンプリングが多く、それらはギターリフが多かったからRUN-D.M.C.よりもずっとキャッチーで入りやすかったし、特に3曲もサンプリングに使われていたツェッペリンを夢中になって聴いていた俺が喜ばない訳がない。黒人のようなリズム感は皆無で、もともとはハードコア・パンク・バンドから始めたというだけあってヒップ・ホップな雰囲気は少なく、むしろロックのアルバムといった感じだ。それが功を奏したのか『ライセンスト・トゥ・イル』はビルボードのアルバムチャートで1位になった最初のヒップ・ホップ・アルバムとなった。蛇足だけどバカっぽさもウケた要因じゃないかと思っている。
90年代に入っていくとロックとヒップ・ホップをミックスしたようなバンドが多く出てくるようになったが、このアルバムはある意味その先駆けと言ってもおかしくない。しかしビースティ・ボーイズがそれらのバンドと違うのはロック・バンドとしてではなく、ヒップ・ホップ・グループとしてアプローチしたことだ。2枚目の『ポールズ・ブティック』がリリースされたが3年後の1989年、このアルバムと同じような音を期待されていたのであろうが、しかしサンプリングをさらに多用した王道ヒップ・ホップ・アルバムだったために「なに真面目になってるの」的な雑誌の評価もあったぐらいで商業的には失敗した。だけど俺はこの最初の2枚でヒップ・ホップという枠から抜け出すためのケリをつけたのだと思っている。俺よりも下の世代の人が「ビースティズ最高」というのはその後のオルタナティヴという言葉が出てきた90年代になってからの彼らの音楽性なんじゃないかなといつも思う。そうは言っても『ライセンスト・トゥ・イル』は今聴いても異彩を放っているし、彼らを語る上では決して無視できないアルバム、そしてヒップ・ホップ史上でも間違いなく歴史に残るものであろう。(h)
【イチオシの曲】⑫Slow And Low
この曲はもともとはRun-D.M.C. が『キング・オブ・ロック』のセッションで録音したがオクラ入りしたもので、しかしビースティ・ボーイズはこの曲を気に入っていたとのことでRun-D.M.C.から許可をもらってカバーすることになったそうだ。現在は両者のバージョンを聴き比べることが可能だが、一部のリリックを変更しているだけでほぼ忠実にカバーしているところなんかは彼らのRun-D.M.C.へのリスペクト具合がよく表れていて興味深い。
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